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| 毎月の報告・エッセイのアーカイブ集です。2003年の6月から載せ始めました。 |
早稲田大学で開催された日本移民学会の総会(六月二十六日と二十七日)に出席するために、日本に帰国していました。大会初日、会場の受付で、「林さん」と私の名前を呼んでくださったのは、柳澤幾美名古屋外国語大学講師でした。一年半振りの再会でした。柳澤さんのお隣には、ステキなご主人がいらっしゃいました。 次に、分科会の会場に行こうとすると、「林さん」と、また、呼ばれて振り返ると、北米毎日新聞社顧問の乗本恵三さんでした。シンポジウムの総会では、乗本さんのお隣に座らせていただきました。 1980年代にロサンゼルスに住んでいた私は、『羅府新報』の乗本さんのコラムを読んで、日系移民史に興味を持つようになりました。サンフランシスコで、『北米毎日』の社長となられた乗本さんとお会いした時、北川という名前で、『加州毎日』にコラムを書いていらっしゃったことを聞いて驚きました。 というのは、谷次郎さん(『羅府新報』広告部長)やジャック岩田さん(共同ニュースのロサンゼルス支局長)のについて書かれた北川さんのコラムから、北川さんは、日系社会の生き字引のような方だな、と思って、どんな方なのだろう、と想像をめぐらせていたからです。 『羅府新報』と『加州毎日』がライバル関係にあったので、『加州毎日』では、乗本の名前では書けないので、ペンネームで書かれたとのことでした。 日本移民学会の総会では、田中きく代関西学院大学教授と高木(北山)真理子東海女子大学教授と親しくお話をさせていただきました。お二人が主催されている北米エスニシティ研究会に入会させていただいて、次回の出版には、私も執筆メンバーに加えていただけることになりました。(2004年7月18日記) 日本移民学会の年次総会の開催月が、12月から6月に変更されて、今年で2年目になる。今年の年次総会(早稲田大学所沢キャンパス)の研究発表では、私が知っている研究者の方が、二人、発表される。嘉納ももさん(京都女子大学 現代社会学部)と、柳沢幾美さん(名古屋外国語大学 非常勤講師)だ。嘉納さんには、昨年、京都女子大学で、「女性が生きやすい社会とは何か」という演題で講演した時に、司会を引き受けていただいた。カナダで留学生活を送られた加納さんが、「新移住者家庭における日本文化継承――トロント市におけるケーススタディより――」という演題で研究発表をされるので、どんな研究発表をされるのか楽しみにしている。 柳澤さんの演題は、「ハワイにおける『写真結婚』問題」。私は、アメリカの日系女性移民史に興味をもっているので、写真結婚問題は、単なる女性問題ではなく、排日問題という視点から研究発表をされる柳澤さんの研究発表も楽しみにしている。 柳澤さんとは、2002年12月に、京都女子大学で開催された日本移民学会の年次総会で、門池啓史さん(名古屋市立大学大学院の大学院生)に紹介していただいて以来、アメリカと日本と離れてはいるが、メールで近況を知らせ合うようになった。 アメリカの日系女性移民史の研究は、アジア系アメリカ人研究の一環として、アメリカのエスニック・スタディーズの研究者によって、論文や研究書として出版されているが、日本では、研究書をみかけないので、これからの分野なのかな、と思っている。(2004年6月6日記) 北國文華』の夏の号(2004年6月6日発行)(北國新聞社)に、私の原稿「国際結婚のさきがけーー米・豪に渡った日本人女性、戦争花嫁ーー」が掲載されます。戦争花嫁と言う言葉は、日本では、死語といわれていますが、アメリカの日系人社会では、この言葉は差別用語ではないかという論争が、何度か起きました。 戦争花嫁と呼ばれる女性たちは、「自分たちを指し示す言葉の呪縛から逃れることが出来ないのならば、その言葉のもつ意味を変えよう」と、一九八八年に啓蒙運動を開始しました。 日本、アメリカ、オーストラリアで、交流会を開き、草の根親善大使として活躍する戦争花嫁たちに、暖かいお言葉をかけ、励まされたのが、美智子皇后でした。 本稿では、差別語論争、日系国際結婚親睦会の活動、美智子妃殿下との関わりについて書きました。 テキサス州在住の戦争花嫁、ピアー・豊子さん(富山県出身)の特別ラジオドキュメンタリー(題名、未定)は、五月三十日(日曜日)に、北日本放送ラジオ(KNB)で、午後1時から45分の予定で、放送されます。 ピアーさんの他の出演者は、スタウト・梅津和子さん(日系国際結婚親睦会会長、ワシントン州)、フォレスター・ツチノさん(同会副会長、ワシントン州)と林かおり(『戦争花嫁』の著者)です。(2004年5月23日記) 出版が決まりました!この本には、日系国際結婚親睦会(ワシントン州、スタウト梅津和子会長)の会員の方々のライフ・ヒストリーを書きました。 米・進駐軍兵士の妻となったピアー・豊子さん(富山県出身、テキサス州在住)、朝鮮戦争の米・通信兵の妻となったアンバーン・節子さん(北海道出身、ワシントン州在住)、ベトナム戦争の銃後の妻となったクック・登美子さん(北海道出身、フロリダ州在住)の三人です。 三人の“花嫁さん”たちとは、日系国際結婚親睦会の第四回世界大会(2002年、別府)の会場で知り合いました。 アナコーティス(秋田県の象潟市と姉妹都市)在住の節子さんのお宅には、カーター大統領(1979年当時)と節子さんが、ホワイト・ハウスで一緒に撮った写真がありました。ご主人のジョーさんは、ロザリン大統領夫人と一緒に写っていました。「どうして?」とビックリしてしまいました。 日本の敗戦、復興、朝鮮戦争による軍需景気、ベトナム戦争と時代が変わるにつれて、米軍兵士に対する日本人女性の意識も変化していったことを、彼女たちのインタビューから知りました。 詳しいことは、本ホームページで、順次お知らせしていきます。(5月6日) 富山県出身の戦争花嫁、ピアー・豊子さん(テキサス在住)の特別ドキュメンタリーが、北日本放送(日本テレビ系列)のラジオ番組として制作されることが決定しました。五月初旬に制作スタッフの木下一哉さんが渡米されます。私は、今年、出版予定の『戦争花嫁』の続編の中で、豊子さんのことを原稿用紙で八十枚書きました。アメリカで、自分を失わずに、強く生きてきた豊子さんの人生を、多くの人々に知っていただけることを嬉しく思います。 アメリカに五十年以上住んではいても、豊子さんにとって、立山は懐かしい故郷(ふるさと)のようです。数年前に、小学校時代の同窓会にも出席したそうです。彼女のお友達からも、「今度、豊子さんはいつ、富山に帰られるのかな?」と、彼女のご実家に問い合わせがくるそうです。 木下アナウンサーは、ロサンゼルス(カリフォルニア州)、ウイチタファールズ(テキサス州)、エルム(ワシントン州)、デイビス(カリフォルニア州)と、精力的に取材をされる予定です。 富山県の立山町で生れ、東京の六本木で進駐軍兵士のアリソン・ピアーさんと出会った豊子さんは、ニューヨーク州、ジョージア州、アリゾナ州、イリノイ州、ハワイ州、ニューメキシコ州、アラスカ州、アリゾナ州、テキサス州と、アリソンさんと一緒にアメリカ中を軍人の妻として転々としました。どんな人が、どんな人生が、アメリカ各地で豊子さんを待っていたのでしょうか。 木下アナウンサーはワシントン州で日系国際結婚親睦会のスタウト・梅津和子会長とフォレスター・つちの副会長にもインタビューの予定です。 アメリカで生れた日系国際結婚親睦会は、第三十二回海外日系人大会(一九九〇年)後の親睦旅行で、宇奈月温泉(富山県)を訪れています。宇奈月温泉での思い出話など聞けるかもしれません。(4月24日記) 富山県民共生センター サンフォルテ(富山県女性財団)での講演が決まりました。10月3日に、私のアメリカでの作家生活についてお話をすることになりました。蟹瀬美和子館長、平井利枝子事業課長、牧野圭子主任と、4月2日に、富山市の同会館でお会いしました。三人とも、とてもステキな女性でした。私が富山県で暮らしていた頃には、富山県は男尊女卑の色彩の強い県といわれていましたが、元気印の女性たちが働いている姿を見て、とても頼もしく思いました。「頑張れ富山の女性たち!」 平井課長は、昨年11月に、私が国際電話で声の出演をした木下一哉アナウンサーのラジオ番組『KNBデイリーウェイヴ』(北日本放送ラジオ)をたまたま聞いてくださっていたそうです。 「林さん、ラジオで、カリフォルニア州のシュワルツネガー知事とお父さんの誕生日の話をしませんでしたか?」と訊かれました。「ピンポン!」平井課長とは、ご縁があったのですね。 私の講演の実現に尽力してくださったのは、もう一人の元気印の女性、ひづめ和子市会議員。ひづめさんは、高岡市初の女性市会議員で、現在、樋口恵子さん(東京家政大学教授)の「高齢社会をよくする女性の会」でも活躍中です。「困ったことがあれば、ひづめさんにお願いすれば、どんなことでも一生懸命にやってくださる議員さん」として有名です。 これから、サンフォルテの平井課長と牧野主任と講演の詳細について、打ち合わせをしますが、会場に来てくださった方々が、「今日は、サンフォルテに来てよかった」と言ってくださる有意義な講演にしたいと思っています。(4月12日記) 関西学院大学の山本剛郎教授からご連絡がありました。今年の四月から、UCLA(University of California, Los Angeles、カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で、在外研究員として一年間、日系アメリカ人コミュニティーの研究をされるそうです。どんな研究をされるのか楽しみにしています。山本教授とは、日本移民学会で、何度かお話をさせていただきました。著書『都市コミュニティーとエスニシティー:日系人コミュニティーの発展と変容』の中で、同教授は、ロサンゼルス、ヤマトコロニー、コーデスコロニー、ガーデナ、フレスノ、サクラメント、三尾村の日系アメリカ人と日系カナダ人をテーマに、土着層と来住層の間の社会過程――緊張、葛藤関係や共同関係――を研究されています。 UCLAのアジア系アメリカ人スタディーズ・センター(Asian American Studies Center)が、山本教授のアメリカでの研究先になっていますが、同センターは、その資料の豊富さから、日米の移民研究の諸先生方が集まる場所です。 私も、ロサンゼルスに住んでいた時には、日本移民学会の諸先生方と同センターでよくお会いしました。その頃は、まだ、日本移民学会が設立されていなかったのですが、同センターに研究にいらしていた研究者の方々の多くが、後日、日本移民学会の会員になられました。そういう事情から、私にとっては、この学会は同窓会的な会になっています。 私が、日本移民学会の二代目会長の田村紀雄東京経済大学教授と最初にお会いしたのも、田村教授が同センターに研究にいらしていた時です。この時の出会いがご縁となり、田村教授が編集された『正義は我に在り:在米・日系ジャーナリスト群像』(共著)の執筆メンバーに加えていただきました。ちなみに、『正義は我に在り』は、現在、品切れ状態が続いているので、入手困難になっています。 同本の第八章「『羅府新報』と愛国運動」の中で、私は、戦前の『羅府新報』(1924-1942年)の二重性について執筆しました。同紙は、日米両語の二ヶ国語新聞なのですが、同じ新聞でありながら、日本語欄と英語欄では、編集方針も記事の内容も異なっていたからです。 日本語欄は、1931年に始まった日中戦争を支持した親日記事を、英語欄は、アメリカ人としての二世の立場を模索して親米記事を掲載していきました。そうした、編集の違いがどうして起こったのかということを、記者の経歴と思想から説明していったのです。一世も二世も。彼等の愛国思想を『羅府新報』の紙面に反映させたのですが、日本回帰を思考する一世とアメリカを祖国とする二世では、愛国の質も異なっているのです。 私にこの研究を薦めたのは、California State University, Northridge(カリフォルニア州立大学ノースリッジ校)の大学院のDr. Susan Henry(スーザン・ヘンリー教授)です。ヘンリー教授は、アメリカの人種差別に敢然と立ち上がったジャーナリスト、Carey McWilliams(ケアリー・マクウイリアムズ)の愛弟子でした。というわけで、私は、私の尊敬するジャーナリスト、ケアリー・マクウイリアムズの孫弟子ということになります。 私は、マクウイリアムズ著のPrejudice: Japanese Americans、Southern California Country:An Island on Land, Brothers under the Skin、 Factory in the Field: The Story of Migratory Farm Labor in Californiaを読んだ時、「スゴイ。私もいつかは、マクウイリアムズのような闘うジャーナリストになりたい」と思ったものでした。(私の若かった頃の話です。) 話は変わって、私の本の在庫状況ですが、『アメリカの女 日本の女:カリフォルニア通信』も品切れになりました。入手が難しくなっていると思います。ちなみに、『カリフォルニア便利帳』(共著)は絶版。『戦争花嫁:国境を越えた女たちの半世紀』(共著)も在庫が少なくなってきています。(2月29日記) 1月下旬から2月にかけて、ワシントン州のシアトルに行ってきました。夏のシアトルには4回行ったことがありますが、冬のシアトルを訪れたのは初めてでした。マリナーズのセイフコ球場のギフト・ショップで、佐々木主浩投手のサイン入りボール(マリナーズの証明書付)を買いました。2004年1月21日に佐々木投手が電撃退団をしたために、マリナーズ選手としてサインをした「最後の一個」という言葉に引かれて、サイン入りボールを買ったのですが、本当に「最後の一球なのかな? あとで、ボールがゴロゴロ出てきたりして」(ダジャレ) 同ギフト・ショップでは、イチロー選手のサイン入りボールも売っていました。お値段は1個、500ドル。売れ筋らしく、店頭に、10個ぐらい置いてありました。 「イチローのサイン入りボールは、今度、シアトルに来たときに買えばいいかな。残り物には福があると言うから、今回は、最後の一球の佐々木投手のボール」と思って買いました。イチロー選手、今度、私がシアトルに行くまで、電撃退団なんてしないでくださいね。 今回、シアトルを訪れた理由の一つは、『北米報知』紙(シアトルで発行されている日系紙)を読むためです。日系国際結婚親睦会の会員が出版された『「戦争花嫁」五十年を語る:草の根の親善大使』の中で、日系国際結婚親睦会会長のスタウト・梅津和子さんが、次のように書かれているので気になったのです。 「一九八四年一月一日、北米報知の紙上で、『戦争花嫁』はなぜ、侮辱語なのか、の題で座談会がありました。司会者は日系移民研究家で北米報知東京支社長の伊藤一夫氏でした。私も含めた八人の戦争花嫁さんが、それぞれ意見を述べました。あの時私は本気で侮辱した呼び方だと頑張りました」 この座談会の記事を読みたくて、ワシントン大学シアトル校の図書館に行ったのですが、1984年1月1日付の同紙のマイクロフィルムには、戦争花嫁の座談会の記事はありませんでした。マイクロフィルムもれでしょうか、それとも、スタウトさんの勘違いだったのでしょうか? 念のために、シアトルのダウンタウンにある図書館に行ってみましたが、近日中に引越しをするために、多くの資料が倉庫に入っているために読むことができないとのことでした。(ワシントン大学の『北米報知』紙のマイクロフィルムは、ワシントン大学内でマイクロフィルム化しているので、他のライブラリーのマイクロフィルの中には、戦争花嫁の座談会の記事があるかもしれない、と思ったのです。) 無駄足となったシアトル旅行でしたが、『北米報知』紙のマイクロフィルムの中に、1980年代に始まった戦争花嫁の差別語論争が、『朝日新聞』の論壇の記事を契機として始まったことを知りました。今度は、この『朝日新聞』の記事を読むために、日本の国立国会図書館に行こうかな。取材旅行ははてしなく続きそうです。(2月4日記) 写真のページ」に、拙著『日系ジャーナリスト物語』の資料として、藤岡紫朗の写真を追加しました。私は、藤岡のお嬢さんのナカキ・カオル・ペギー(Peggy Kaoru Nakaki)さん、リトル・東京の生き字引、清水三彦さん(1911年からのリトル・東京の居住者、故人)、岩田ジャックさん(Jack Iwata、羅府新報のカメラマンで、のちに共同ニュースのロサンゼルス支局長になる、故人)、永井勝雄さん(戦前の羅府新報従業員)、堀稔さん(藤岡の友人で、戦前のロサンゼルスの日本人会の役員)に、藤岡についてお話を訊きました。こうしたインタビューを通して、藤岡の勤勉実直なイメージが浮かび上がってきたので、『日系ジャーナリスト物語』の中で、藤岡を超真面目な人物として描きました。 さて、第二次世界大戦中のアメリカの日系二世の忠誠心、および二重国籍をテーマとした藤島泰輔の『忠誠登録』に、羅府日本人会書記長の笹本周一という真面目な人物が登場するのですが、私は、藤岡紫朗が、この笹本のモデルではないかと思っています。 『忠誠登録』(藤島泰輔、読売新聞社、1967年)の中で、日系二世の若者から二重国籍について尋ねられた笹本は、「民族文化の発展のために、完全にこの国の市民となって、百パーセントの忠誠を誓う。われわれ一世は、その民族文化発展の捨石となる覚悟でアメリカへきた。すでに地盤は築いた。あとは君たちが継いでくれることだ。それだけでなく、太平洋を間にした二大強国、その二つの国家に永遠の親交を保たせていくくさびになるという大事業も、君たちの仕事だ」と答えます。これは、まさに、藤岡の思想そのものですし、第二次世界大戦直前の藤岡の職業は、カリフォルニア中央日本人会の書記長でした。 ロサンゼルスの日本人会の役員であった藤岡は、アメリカを移民の地ではなく、日本民族発展の地と考えていました。だから、日系移民について著した彼の著書にも『民族発展の先駆者』(同文社、1927年)というタイトルをつけたりしています。こうした思想は、明治期の外務大臣で殖民・定住を推進した榎本武揚の殖民思想に通じるところがあります。 明治期の日本人移民のアメリカ入国の目的は出稼ぎといわれていますが、藤岡にとって、アメリカ在住の目的は、お金を稼いで日本に帰ることではなく、日本国の発展のための先兵としてアメリカに留まることだったようです。だから、1924年にアメリカに排日移民法が制定されて、アメリカにおける日本人移民の民族としての発展が制限されると、日本人移民を率いて、モーゼのようにメキシコに移住することを考えるのです。 ちょっと余談になりますが、私は、アメリカに住んで、今年で25年になるのですが、ポーランド人の移民に初めて会いました。ポーランド人に会ったのも生れて初めてのことでした。 カリフォルニアに住んでいると、外国人移民といえば、メキシコ人、韓国人、中国人、ベトナム人が多いので、ヨーロッパ系の人々が今もなお移民としてアメリカにやってきているという事実に、とても驚いてしまいました。 アメリカに来て15年という大工の棟梁のバルデモンさんは英語を流暢に話しますが、他の大工さんたちは英語を話しません。バルデモンさんによると、ニューヨークやシカゴには、200万人のポーランド人移民が住んでいて、ポーランド語の新聞(ethnic newspaper)も発行されているそうです。バルデモンさんのお話を聞いた時に、私の目の前に、1920年代の移民学者のロバート・E・パーク(Robert E. Park)が調査した東ヨーロッパ系移民の世界が広がってきました。 パークの著書の『ザ イミグラント アンド イツ コントロール(The Immigrant and Its Control)』は、アメリカでは移民学の入門書ですが、その中には、現在もロサンゼルスで発行されている日本語新聞『羅府新報』の記述もあります。パークは1920年代前半の『羅府新報』について記述をしているのですが、それは、藤岡紫朗が『羅府新報』の編集長として働いていた時期でもあります。(1月16日記) 女優の五大路子さんから送っていただいた伝説の娼婦「横浜ローザ」(2003年8月15、16、17日、横浜レンガ倉庫一号館、五大路子、一人芝居)のビデオを拝見しました。NHKの朝のテレビ小説「いちばん星」で主役デビューをされた五大さんは、演技派女優として知られています。二十代の若妻から、米兵相手のオンリー、街娼、そして孤独な晩年を送る女性の一生と幅広くこなす演技力には素晴らしいものがありました。 過去六年間に亘って、私は、米・豪兵士と結婚して、戦争花嫁として夫の国に渡った日本人女性の半世紀をテーマとして執筆活動を続けてきましたが、私には一つの疑問がありました。 「花嫁とならずに、日本に取り残された女性はどうなったのだろうか」という疑問です。そうした女性の一人が、ハマのメリーさんです。 一九九四年の十二月、五大さんが、「今度、メリーさんのお芝居をさせていただきます」とメリーさんに挨拶されると、メリーさんは、「あっ、そう」と一言、言われたそうです。 「その白い手から熱いものが、激しく私に流れ込んで来た。時を超え、昭和という時代の横浜の顔を見たような気がした。伊勢佐木町にあった米軍の飛行場、カマボコ兵舎、米兵・・・」と五大さんは、その時の思い出を語っていらっしゃいます。(『読売新聞』、2000年8月29日) 瀬戸内海を臨む小さな町に生れたメリーさんは、終戦後まもなく芦屋の料亭で働いていた時に米軍将校と知り合い、彼のオンリーとなります。米軍将校と一緒に上京、国会議事堂近くのホテルでゴージャスな生活をするわけですが、その将校がアメリカに帰国した時に捨てられてしまいます。 彼女は、その後、米兵相手の売春婦となって、“商売”の場所を東京、横須賀、横浜と変え、“商売”の相手も、アメリカ人から日本人へと変えますが、四十歳を過ぎると、流石に容色にも翳りがでてきて、生計を立てることが難しくなっていきます。 街角に佇むメリーさんのことを、「白塗りのオバケ」と陰口をたたく人もでてきます。しかし、それでも、メリーさんは街角に立ち続けます。彼女が眺める横浜の海の向こうには、彼女が愛した男性の国、アメリカがありました。 一九九〇年代になると、メリーさんは、横浜の新聞、雑誌の紙面を飾る“有名人”になります。横浜で生まれ、横浜に暮らす五大さんは、メリーさんを街角で見かけてから、メリーさんに興味を持ち始めます。そして、横浜で伝説となりつつあったメリーさんの一生をモチーフとした「横浜ローザ」というお芝居を作り上げるわけです。脚本は杉山義法さんです。 次回の帰国時、五大さんに、インタビューをさせていただけることになりました。とても、楽しみにしています。五大さんよろしくお願いします。(12月20日記) 北日本放送(富山県)のラジオ番組「KNB デイリーウェイヴ」(木下一哉&長谷川綾子アナウンサー)に出演しました。南カリフォルニアの山火事の話やシュワルツネッガー加州新知事のこと、私のアメリカ生活について、国際電話でお話をしました。(11月5日ナマ放送)私は高岡市の中心にある平米小学校、高陵中学校、高岡高校を卒業しているので、番組の中で、木下アナウンサーから、「町の子」と言われました。東京出身の木下アナウンサーに「町の子」といわれて、私はどこかくすぐったい気持ちがしたのですが、幼稚園児の私が最初に乗った自動車がフランス製だったことや、小学校時代の同級生にピアノのうまい人が多かったことなどから、高岡市は、確かに「町」だった、と思いました。 昨年、十月に、富山県立山町出身の戦争花嫁のピアー・豊子さん(テキサス州在住)にインタビューをさせていただいた時も、「あなたは、富山県といっても町の育ちだから、立山のことは分からないよ」と言われたことを思い出しました。(ピアーさんに関しては、原稿用紙で80枚くらいのライフ・ヒストリーを書き上げました。近日中に、拙著『戦争花嫁』の続編の一部として出版したいと思っています。) 私と同じく高岡市出身の林忠正(1853-1906)は、明治時代に、ヨーロッパで日本の浮世絵を紹介したパリ在住の画商なのですが、明治の林忠正も、木下アナウンサーの言葉をお借りすれば、明治の「町の子」ということになるのですよね。(11月22日記) サーバー移転しました。かなり早くなったと思いますが、いかがでしょう。ご意見ください。(11月11日) フロントページが少し重いのでは、というご意見をいただきました。現在サーバーの変更を含めて改良検討中です。もうしばらくご辛抱ください。 日系国際結婚親睦会のオーストラリア支部の10周年記念大会(戦争花嫁オーストラリア入国50周年記念)の取材のために、9月25日から10月7日まで、オーストラリアに滞在しました。キャンベラの『The Canberra Times』紙(9月30日、2003年)とローカル・テレビ(WIN)の6時のニュースに、オーストラリアの首都、キャンベラに集まった米・豪の戦争花嫁の話が取り上げられました。キャンベラ在住の戦争花嫁、ブレア・照子さんの話が、“War brides share most bittersweet of memories”というヘッドラインで、『The Canberra Times』に大きく取り上げられました。 『オーストラリアに抱かれて』の著者、ブレア・照子さんから、呉(広島県)でのビル・ブレア准尉(スコットランド系のオーストラリア兵)との出会い、生後3ヶ月の長男を伴っての渡豪(1952年)、メルボルン、シドニー、キャンベラでの50年に亘るオーストラリア生活のお話を聞くことができました。オーストラリア在住の照子さんにお会いしたのは、1997年(東京、会津若松)、2000年(ロサンゼルス)、2002年(別府)の日系国際結婚親睦会の大会に次いで4度目になりますが、今回、初めて、照子さんに取材をさせていただくことができました。 照子さんは、『徹子の部屋』(1991年)に出演されたことがあるのですが、私は、その番組を日本に帰国していて、たまたま見ていました。その時は、白豪主義で知られるオーストラリアにも日本人が住んでいるということに、アメリカに住む日本人の私は、えらく感心して番組を見ていたのですが、それから、12年後に、アメリカに住む私が、オーストラリアで、照子さんに取材をさせていただくことになるとは考えてもいませんでした。 私の取材を快く受けてくださった照子さんの胸の楕円形の金のペンダントには、愛するご主人、ビルさんの遺灰が入っています。1925年生まれの照子さんの願いは、自分に死が訪れた時、愛するビルさんの遺灰と自分の遺灰を、二人が愛した国、オーストラリアの海に一緒に散骨してもらうことだそうです。 「ビルは、いつも私を愛してくれました。こんな私なのに。」照子さんの人生に悔いがあるとすれば、ビルさんが照子さんを愛してくれたのと同じ深さで、ビルさんを愛してあげることができなかったことのようです。(10月14日記) 京都大学の蘭信三助教授が中心になって運営されている「オーラルヒストリーの会」に入会しました。私の入会の時点で、既に、150人の会員がいらっしゃったので、「随分と大きな研究会だな」と思っていたら、9月に学会の設立準備委員会ができて、学会設立へと大きく動き出しました。
新しい会に入会すると新しい出会いがありますが、同会の会員の中村平さん(大阪大学の大学院の博士課程在籍)から、今秋、私の住んでいるデイビスのカリフォルニア大学に留学されるとの連絡がありました。中村さんは台湾の少数民族と日本人とのかかわりを、蘭助教授は、満州の日本人の研究をされています。これから、海を渡った日本人の研究をされている研究者の方々と意見の交換ができることを楽しみにしています。というのは、現在、私がリサーチを進めている戦争花嫁さんの中に、満州生まれ、台湾生まれの日本原籍の方が何人かいらっしゃるからです。 満州や台湾で日本人として生れたが、第二次終戦の終結とともに、日本に帰国。初めて見た祖国、日本で、アメリカ人兵士と知り合って結婚、渡米。3つの祖国をもち、今、アメリカ人として、人生の終焉を迎えようとしている彼女たちの人生にドラマを感じるのは私だけでしょうか。(9月13日記) 7月13日から30日まで、日本に帰国していました。日本では、ディズニーランド、ディズニーシー、フランス料理店の『クイーン・アリス』に行ってきました。
ロードショウ映画『踊る大捜査線2』も観てきました。サンフランシスコの空港で、アメリカ再入国の時に、移民官の方から、「日本へは、バケーションですか?」と訊かれて、思わず、「イエス」と答えてしまいました。でも、戦争花嫁関係のリサーチもしてきましたよ。国立国会図書館(東京)では、終戦直後の『毎日新聞』、『朝日新聞』、『読売新聞』を読んできましたし、新しい資料・論文も発掘してきました。『読売新聞』は、終戦直後、『読売報知』という紙名だったことも、初めて知りました。 日本移民学会のニューズレター(7月号)に、『羅府新報』(ロサンゼルスで発行されている二ヶ国語新聞)の100周年記念のイベントのお知らせが掲載されていました。今年10月に、『羅府新報』の100周年の記念誌が発行されるのですが、私は、その記念誌に、日米両語で、100年に亘る同紙の歴史を書きました。100年に亘って、アメリカの日系社会で情報を発信し続けた老舗新聞の記念事業に携わることができたことを大変嬉しく思っています。 富山県(私の出身県)では、素晴らしい女性、お二人にお会いしました。富山県の女性官僚の蟹瀬美和子さん(サンフォルテ・富山県民共生センター館長)と、高岡市議会議員のひづめ和子さんです。ひづめさんは、今年、4月の市議員議員選挙では、トップ当選をされた4期目の女性議員です。富山県は、女性の社会進出が遅れている県なのですが、素晴らしい女性(お二人とも私と同じ高岡市出身)が、富山県の女性のために頑張っていらっしゃるお姿を拝見して、「これからの富山は変わる」と思いました。(以上8月4日記) 新しく写真のコーナーも設けました。京都女子大学の公開セミナーの後、現代社会学部の教授および学生の皆様、日本移民学会事務局長の坂口満宏助教授がコンパに集まってくださいました。その時の、写真です。拙著「日系ジャーナリスト物語」の内容紹介と写真も参考資料として加えました。(7月12日記) 4月に、東京の国立国会図書館で、戦争花嫁関係のリサーチをしてきました。1953年に発行された『夜の基地』(神崎清著)という本は、本の損傷が激しいので、特別閲覧室のみで閲覧可能、そのうえ、コピーは不可といわれました。そこで、特別閲覧室に丸一日こもって、鉛筆書きでメモを取りました。この作業は思ったよりも疲れました。データベースで同本を検索してみると、カリフォルニア大学バークレー校で一般図書として貸し出していることがわかりました。早速、インター・ライブラリー・ローンで借りてみると、2001年から4回の貸し出し記録がありました。誰か、アメリカでも、戦争花嫁の研究をしている人がいるようです。 7月には、もう一度、東京の国立国会図書館で、戦争花嫁関係の資料を探してみたいと思っています。終戦前後の新聞は、『朝日新聞』と『毎日新聞』を読みましたが、『読売新聞』は、まだ、読んでいません。そこで、今度は、1945年前後の『読売新聞』を読むつもりです。 私は古い新聞を読むのが結構、好きなんです。なんていうか、タイムスリップをしているような面白さがあるからです。そういえば、昔、「タイムトンネル」なんていうテレビ番組もありましたね。(6月9日記) |
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